昨日昼寝しながらYouTubeで、松ちゃんのラジオ「放送室」を聴いていたら、特に印象深いフレーズが出てきた。
坊主のイメージが強い松本人志氏。「外で顔指さんように
ヅラでもかぶったろかな」と思い付いて、マジヅラ(コント用ではなく一般の薄毛の方が着用しているメーカーのものと思われる)を購入してみたとのこと。
注文していたものが届いたので、自宅で早速試してみたところ、鏡に映った自分を見ては毎度毎度大爆笑するほど、オモロかったらしい。「どう見ても、ただ変な事をしてるオレやねん! あれなんであんなにオモロかったんやろな…」と松ちゃん。
それを聞いた高須氏が、「きっとコントでやったら普通やねんな。それは日常に落とし込んどるから、そんだけオモロかったんやわ」というようなコメントを返していた。
それを聴いて自分もなるほど〜と感心。「日常に落とし込む」という言葉をかなり気にいった次第。
最近自分でもどうしたんだろうと不思議に思うのだが、日常生活の中で、時々異常なくらいイライラしてしまうことがある。それも今までは思う通りにならない状況に腹を立てることはあっても、あまりその怒りの矛先を特定の誰かに向けることはほとんどなかったのだが、この頃神経がピリピリしてる時に、誰かの言動が気に障ろうものなら、即揉め事に発展しそうな感じなのである。事実、先日混んでいる家電量販店内にて、互いの肩がぶつかったのどうのと些細なことで喧嘩になりかけてしまった。今でもその時の状況で自分に非はないと思っているが、それでもその後数日は「なんであれくらいの事であんなに腹を立ててしまったんだろう」と自己嫌悪に陥った。
それもどうやらサーフィンから帰って来て数日間にそういう傾向にあるらしい、と思い当たるところあり。
なぜ?…楽しんで、むしろ海でストレスを洗い流して、サッパリして帰って来てるはずなのに…。
自分でも府に落ちない感じがしていたので、その理由について考えをまとめていた。
サーフィンを真底楽しんでいるのは確かなのだが、海でのひとときを満喫し過ぎて、日常に戻った時に大きなギャップを感じてしまっているが故の、情緒不安定なのではないかと考えている。
たかだか日帰りで東京近郊の海岸に出かけ、数時間波と戯れただけで、「日常とのギャップ」とは大袈裟な気はするが、田舎町の隙間の多い風景や広がる海を目にし、時計を気にせず、波音以外は聞かず、波に乗るという目的以外に余計な事は考えない、そんな時間を過ごした後では、東京の街に紛れると「なんとストレスフルな環境であることよ」と思ってしまうのは確かなのである。やれ世の中不景気だ、道行く人々の表情は暗い。逃げ場のない状況に誰もが追い込まれているが、有効な対策は見出せない…。漂う不穏な空気に過敏になってしまっているようなのである。それに対して自分が何か出来るわけでもなく、ため息とともに呟くのみ。「とかく此の世は世知辛いなあ」と。
さらに、あまり認めたくはないが、確実に自分の「オッサン化」は進んでいるわけで、世間一般に対して文句を言いたがる傾向にあるのは確かだ。若い頃の自意識過剰ぶりは、今振り返っても赤面したくなるようなところもあったので、あんまり自分の事ばっかり考えているよりは、自分を取り巻く環境、政治や経済の動向が与える影響などにも目を向けられた方がいいとは思っている。だが、「好むと好まざるに関わらず、この性格で37年も生きてきてしまった自分」を肯定したいがために、いろんなことを人のせいにして平気でいられるような鈍感さは身につけたくないのだ。
そんなアンビバレントな状況に苛立っているのだと思う。
この状況を改善すべく、とりあえず今導き出した自分なりの結論は、
「サーフィンを日常に落とし込まなアカン!」
ということだ。
はは、言葉にするとバカみたい。
でも「放送室」の高須氏の発言でキーワードを得たワタシ個人的には、落とし所としてこれ以上はないように思える。
まだマイブームでイベントとしてサーフィンに取り組んでいるから、新しい趣味を見つけた自分に対して過度な期待をかけてしまい、焦りが生じて空回りしているのだ。これが、休日は当然の様に海へ行く…別に無理してるわけでもなく、行きたい時に行く、でも天気もいいのにサーフィン行かないで他に何をする?…て感じになれば、それはもう「サーフィンのあるライフスタイル」というものを、自分の日常に落とし込んでいるということになるんじゃなかろうか。そしたら、海での平穏と都会の喧騒も、自分の中ではフラットになり、わざわざギャップを感じる必要がなくなるんじゃないだろうか。
要は「冬の間も頑張ってサーフィンつづけなさい!」ということなんだが、それだけの事にこんなに屁理屈を付けなければいけないとは…いや、吾ながら難儀な性格やなあ(苦笑)。