内田樹先生のブログを引用しました。

内田樹の研究室」という先生のブログがあって、時々読んでいるのですが、「うんうん。そうだよなあ。」と思えることがたくさん書かれてあります。
中でも先日、ネット上の著作権について書かれていた文章にすごく感銘を受けたので、(少々長いけれど)自分で読み返すためにも、ここに転載させてもらいます。
文中で、ご本人が「私がネット上に公開したテクストはどなたがどのような仕方で使われてもご自由である」とおっしゃっているので(いやあ、潔いなあ。)、遠慮なく転載させてもらいましたが、大丈夫ですよね?(太字の箇所は自分の方で強調しましたが。)
今話題のクリス・アンダーソンの著書「FREE」を自分はまだ読んでいないのだけれど、それに通じるところもあるのではと勝手に思っているのですが、どうなんでしょうか。少なくとも自分には簡潔でわかりやすかったです。
◉◉◉◉◉〈以下引用〉
「グーグル問題」について、いろいろ意見を訊かれる。
私の基本的態度は「テクノロジーの進化は止められない」というものである。
とくにグーグルのビジネスモデルは「利用者はサービスに課金されない」というものだから、より実用的な情報環境を求める利用者の不可避的増加を止めることは誰にもできない。
「グーグル以前」の世界標準でデジタル・コンテンツについて考えてももうほとんど意味がない。
どうすればいいのかと凄まれても困るが、「すでにグーグルが存在する世界」に生きている以上、「グーグルを勘定に入れて」暮らすしかない。
私は10年前から「ネット上に公開した情報は公共物」という方針を貫いている。
コピーフリー、盗用フリーである。
繰り返し言うように、私がネット上に公開したテクストはどなたがどのような仕方で使われてもご自由である
私の書いたことをそのまま「自分の書いたもの」だと主張して、単行本にされても構わない。
私は「私のような考え方をする人」を一人でも増やしたくて、ネットを利用しているわけであるから、私の意見を「まるで自分の意見のようである」と思ってくれる人がいることは歓迎しこそすれ、非難するいわれはない。
私が書いていないことを「ウチダタツル」という名前で勝手に発表されるのは困るが、私が書いていることを別人の名前で発表することについては「どうぞご自由に」である。
ほんとに。
別に私は博愛主義者でもないし、禁欲主義者でもない。
デジタル・コンテンツについては「お好きにどうぞ」としておいた方が長期的にはprofitable だと思うから、そう申し上げているのである。
コピーライトという「既得権」に固執する人は、「コピーライトがあるがゆえに生じる逸失利益」というものが存在することにたぶん気づいていない。
例えば。
(中略)
「グーグルがすでに存在する世界」においては「デジタル・コンテンツに課金する」ビジネスモデルは「デジタル・コンテンツそのものには課金せず、無料コンテンツが簡単な操作で簡単にダウンロードできるシステムがデファクト・スタンダードになった結果たまたま生じるバイプロダクツで小銭を稼ぐ」ビジネスモデルに必ずや駆逐される。
ことの「よしあし」ではなく、そういうものなのである。
繰り返し申し上げるか、それはコンテンツの質の優劣とは関係がない。
そうではなくて、そのコンテンツを取り扱うときに心に生じる「これ、うっかり扱うと面倒かな・・・」という思いが、そのコンテンツからゆっくり、しかし確実に人々を遠ざけてゆくのである。
JASRACのようなビジネスモデルは遠からず死滅することになると私は思う。
別にJASRACが「悪い」と言っているわけではなく(ちょっとは思っているけど)、それよりは「音楽について言及したり引用したりするとすぐにJASRACが飛んでくるから。とりあえず音楽について言及したり、歌詞を引用したりするのは自制しよう」というオーディエンスのわずかな「ためらい」の蓄積が「音楽で金を稼ぐ」というビジネスモデルそのものを壊滅させることもあるということである。
(中略)
「もの」の流通を加速する要素には「磁力」のごときものがあり、それを中心にビジネスは展開する。
逆に、流れを阻止する要素があれば、ビジネスはそこから離れてゆく。
「退蔵」とか「私物化」とか「抱え込み」というふるまいは、それが短期的にはどれほど有利に見えても、長期的スパンをとればビジネスとして絶対に失敗する。
ビジネスの要諦は「気分よくパスが通るように環境を整備すること」それだけである。
著作権はそれがあると「著作物の『ぐるぐる回り』がよくなる」という条件でのみ存在価値があり、それがあるせいで「著作物の通りが悪くなる」ときに歴史的意義を失う。
◉◉◉◉

邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)

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