宇多丸氏の「モテキ」評に反論。

先週観に行った、映画版「モテキ」。
その週末の「シネマハスラー」の賽の目映画だったので、自分なりの感想を抱きつつ、宇多丸氏がどう評論するか楽しみにラジオを聴いたのだったが…。
http://www.tbsradio.jp/utamaru/2011/10/108_2.html
常日頃から「負け犬達のワンス・アゲイン」な映画を好むと公言している宇多丸氏のことなので、自意識過剰でひとり相撲を繰り返す、セカンド童貞・藤本幸世の葛藤を描いたこの作品のことは、わりと高く評価するのではないかと予想していた。しかし、意外にも辛口。メールで寄せられた一般の人の評価も賛否が分かれ、ラストに関してはかなり否定的な意見も多かったとのこと。
自分はかなりこの作品がツボにハマった方だったのだが、「好きな音楽がたくさん使われていたから」というのを差し引いたとしても、ちょっと宇多丸氏とは異なる感想を持っていたので書き留めておきたい。(以下、ネタバレ含みます)

好評だったドラマ版との比較に関しては、ドラマ版の方を一話も観ていないので、異論はない。映画版のためのオリジナル・ストーリーで、美女に囲まれるという設定と集客力も考慮したキャスティング上、やや無理やり主人公に絡む4人の美人(長澤まさみ麻生久美子真木よう子仲里依紗)、それぞれのキャラクターが描き込み不足という指摘もその通りだと思う。確かに、仲里依紗演じるバツイチ・ホステスの愛ちゃんは、「ただ出てきただけ」でストーリー的にはほとんど影響しない、というのは仰る通り。さらに言うと、真木よう子もただ身近にいただけで、主人公に対して好意は一切寄せていないので、この二人は実は「モテキ」には関係ない。
ただ、それらシーンも含めて、主人公の藤本(森山未來)に対して「みんな甘すぎる! なんでこんなやつ甘やかすんだ!」というけれども、自分としては「だってそこを肯定してくれている映画で、それがささやかな救いなんだよ!」という思いが強い。
そもそも久保ミツロウ氏が、藤本を「こういう男、まんざらでもないよ」という母性的な視線で見守るように描いていたのが原作なのではなかったか。
そこを踏まえたとしても、監督の大根仁氏は、藤本という男を結構突き放して描いたほうだと思う。
最終的にこんなダメな奴でも肯定してもらえるというのは慰めにはなるが、ただ甘々にならないよう、藤本の最低な部分も美化せず描いているし、「こんなダメな自分をなぜか好いてくれている」というのもただの思い込みで、実際は女の子の方は大して深い意味もなく「いいじゃんそういうのも…」的にサラッと言ったかもしれなかったセリフを、勝手に自己肯定にこじつけているだけかも、という含みは持たせていると思う。そもそも「モテキ」というのこそ、モテない男の妄想で、全くモテてなんかいないというところを突き付けているところが、この作品の刺さってくる部分だと思うのだ。(作品のトーンは全く違うが、「KICK ASS」と比較した時の「SUPER!」に近いと思う)
この作品を観て宇多丸氏と逆だったところは、ヒロインの長澤まさみに対する印象。
とにかく長澤まさみが可愛い過ぎて、この魅力の前ではそれはホレても仕方ない、とか、こんないい女が最終的に藤本のゴリ押しを受け入れるのはご都合主義的過ぎる…という見方は全然できなかった。
…最初から嫌な感じじゃなかった? 長澤まさみ演じる松尾美由紀っていうこの女…。
男には誰に対しても思わせぶりな態度で、それが無自覚だとは思えない、「こいつアタシに気があるな」というのわかっててやってるじゃん!…(つまり、新井浩文演じる藤本の友人・島田の言ったことはその通り)
しかもその思わせぶりな態度は、実は不倫でどうにも身動きとれなくなっている自分の現実と向き合いたくないための、八つ当たり的な言動だったとわかり、「そんなのに巻き込まれた藤本もいい迷惑じゃん!」と思ったほど。
だから最後に藤本が美由紀を追いかけて走り出す直前に、いろんな思い出がフラッシュバックされて、「やっぱりあきらめきれないんだ」となる瞬間まで、自分は「そもそもこの女、そんなにいい女だったか?…それも気の迷いだ、そんな思いは裁ち切れ〜」と思っていた。そういう意味では最後のハッピーエンド的な描かれ方にはガッカリ。
しかしあのシーンも、その前に、ついに不倫相手(金子ノブアキ)が奥さんを捨てて自分の元にくるという決断をして、本当は喜んでいいはずなのに喜べない美由紀…という場面を描いており、実はこの女も現実と正面から向き合うことは避け続けており、悲劇のヒロイン気取りで不倫関係に悩むこんなアタシ…的な自己陶酔に浸っていたことが明らかになる。だからこそ、さらに思い詰めた表情でまっすぐに自分に向かってくる藤本が恐ろしくて逃げ出したのだ。あそこは美由紀的には「ギャーッ!」な場面だったんだと思う。
そしてとうとう藤本に掴まって、文字通り泥にまみれた自分の姿に我に返り、「このくらいの男がほんとはアタシにはちょうどよかったのかも」という自虐的な微笑みをたたえて、やけくそで藤本を受け入れたのだ、と解釈している。
だから結局あのふたりは似た者同士だったんじゃないか。それを、「なんであんないい女があんな最低な奴を…」という見方で観てしまうと、ラブストーリーとしては不満の残る結末になってしまっているのかもしれない。
失礼な言い方なのは承知だが、この作品に対して宇多丸氏はやや「近親憎悪」的な感情を持ってしまったのではないかと思う。
それは「実はこの作品にライムスターもカメオ出演するはずだったんだぜ」的なことを批評の間に言い挿んでみたり、「エンドロールに今更『ブギー・バック』ってのはいかがなものか」みたいなことを言うあたりで、ちょっとそれを感じた。同じ日本語ラップとしてスチャダラに対するライバル心に火が灯ったのかもしれないが、この映画のメインのターゲット層である我々にとって『今夜はブギー・バック』という楽曲がどれほど大きな意味を持つか、宇多丸氏はわかってらっしゃらない。「ラップだったらライムスターの方が上でしょ」とか(言ってないけど)そういう問題ではないのです。しかも「心がわりの相手は僕に決めなよ」とか「最後にはきっと 僕こそがラブ・マシーン」とか、歌詞的にもこの作品のメインテーマになり得ていると思う。
あと、麻生久美子演じる留未子に対して、藤本が何の責任もとっていないという宇多丸氏の指摘があり、それは全くその通りで、だから藤本はダメなんだが、「牛丼食ってひとりで勝手に立ち直って、ハイ終わりって何だそれ?」みたいなツッコミもされていた。実は自分はあの牛丼のシーンが最も泣ける場面だったのだが…。
明確な理由もなく藤本を好きになり、どん引きさせるほどの執着をみせた留未子だったが、さらに墨さん(リリー・フランキー)にも弄ばれて、傷ついていないわけがない。なのにあの牛丼をがっつきながら、思いを断ち切ろうとするいじらしさにグッときたし、最終的に女性は強いということを、我々、同じモテない男連中の観客に見せつけたシーンでもあって、いたたまれなさも感じたのだった。
藤本があの後似た者同士で美由紀とうまく行くことになったとしても、「あれ、イヤなカップルだぜ〜」(藤本は今回の恋愛を通してもあまり成長してないし、そもそも藤本を受け入れたってことは、美由紀は成長を諦めたってことだからな!)、留未子さんはああならなくて良かったよ…と思っているのは、ワタシだけなのでしょうか。…いったいオレは誰の味方なんだ(苦笑)。

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