「初対面の時の相倉先生。」

「粋な夜電波」第228回はフリースタイル。番組ゲストにお越しいただいたこともある、音楽評論家の相倉久人先生を送る会に出席され、その足でスタジオ入りされた菊地先生。
相倉先生との初対面の時の思い出を語られたトークの一部を文字起こししてみました。
湿っぽくならないようにジョーク交じりに、それでいて故人へのリスペクトを誠実に示す、菊地先生のクールな追悼文を読み聞きしていると、「そりゃあ『レクイエムの名手』と呼ばれてしまうよなあ。」と思ってしまいます。

「MC漢から名越さんまで」…っていうね、なんですが…
それでもまだ今日はね、ゲップが出るほど…ゲップが出るっちゃあ、失礼ですけどね。
なにせ今日は、ピーター・バラカンさん、ヒカシュー巻上公一さん、サエキけんぞうさん、マイルスの研究家でもある小川隆夫先生、ワタシの師匠である山下洋輔、その他諸々…一同に会しまして。これはどうしてかって言うと、今年の七夕様の翌日に亡くなった相倉久人先生を送る会」ってのがあって、今日その帰りなんですよね。長沼と二人で行って。
まあ…先々月にですね、「マイルスを聴け!」で御馴染みの…途中まで仲良くさせていただいたんですけど、突然手のひら返したようにボロカス書かれた…「中山康樹先生を偲ぶ会」も出たんですけどね。
今日はもう相倉先生だから規模が違っちゃって、もう…偉いさんが集まっちゃってもう。あそこどこなんだろうな?…学士会館っていうね、もう大変な建物でやってきたんですけどね。
ワタシが…それこそこの番組にも2013年…かな、相倉先生出ていただいてるんですよ。2013年だと思います。ていうか、ここに写真があるんですよね。
この「送る会」の、出た人だけが貰える小冊子があるんですけど、ここに「菊地成孔氏と。(TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」にゲスト出演。2013年1月)」って書いてありますから、間違いないと思いますけども。
ワタシなんかが中坊で、ジャズ聴き始めて、ジャズの本読み始めた時から、もうレジェンドですから。相倉先生はね。
相倉先生の…結局最後の著作となりました「されどスウィング」っていう本が、今出てるんですよね。
で、そこは相倉先生の自選で、もう…ほとんどお分かりだったと思うんですよね、これが最後の本になるって事は。まあ…とはいえ、相倉先生もしぶといっちゅうか、まだまだがん治してやる気だったのかもしれませんけど。
とはいえ、自選の本の中で…ま、自慢するわけじゃないですよ、ほんとに…そこのコンテンツで出てくるミュージシャンが錚々たるミュージシャンで。細野晴臣さん、山下洋輔さん、サディスティック・ミカ・バンドさん、サザンオールスターズさん、吉田拓郎さん、浅川マキさん…などと並びまして、菊地成孔さん出てくるわけですね、これね。ありがたいな〜と思いますけども。
ワタシが相倉先生と最初にお会いしたのが2006年なんですよ。
それはなぜかというと、その年ワタシはUAと「cure jazz」っていうアルバムを出しまして。「cure jazz」っていうのは、今んとこ一番セールスしたんじゃないかな、あれが。ちゃんと調べてない…自分のアルバムのね、売れ行き実数もわからないプロデューサーなんですけども(笑)。
それをね…出した時に、相倉先生が「どうしても会いたいんだ、この菊地って奴に。」って、熱望されたらしいんですよ。
ほいで…ワタシがそん時、何て思ったかというと…
まあ、いっぱいいろんな仕事をこっちはしてるわけですし、相倉先生ってのは山下洋輔さんの師匠、師匠の師匠ってことは大師匠ですからね、その…もう大変な、しかもワタシは中学生の頃から相倉久人の本は全部読み、植草甚一は全部読み、筒井康隆は全部読み…読めるやつはね、山下洋輔も全部読み…っていう、日本のジャズ関係の本をみんな読んで、ジャズ批評家の愛国少年みたいなとこありましたから。
もう相倉先生がどんな方かっていうのは…こっちも生意気盛りでね、10年前ですから42ですよ。
つまり、どう思ったかっていうと…「まあ、いっぱいいろんなもんをオレは出してる。そして山下洋輔の弟子だって事も伝わってるはずだ。しかし、このアルバムに思いっきり食い付いてくるってことは…さすが相倉久人!」…この時まだ知り合いじゃなかったが故の、呼び捨て失礼!って感じですけども…そのリアルをやってるわけですが…「さすが相倉久人、鈍ってねえな!」って、ワタシ内心で思ってましたから。まあまあ…生意気盛りですよね。
そのアルバムもいいんですけど、去年ワタシの「TABOO」っていうレーベルね、ワタシのレーベルから…
「もう絶対リユニオン・ライブはやらないし、リユニオン・アルバムも出さない。」って言ってた「cure jazz」の禁を破って、8年ぶりのリユニオンってことで、「cure jazz reunion live」ってのをやって、それのライブ盤を出したんですよね。こっちのほうからお聞きいただきましょうかね。「Born to be blue」。これライブ盤としてホントにいい!とワタシ思うんですが…オリジナルほどは売れてないので(笑)、宣伝も兼ねまして聞いていただきたいと思います。
cure jazz reunionUA × 菊地成孔」より「Born to be blue」。ジャズのスタンダードですね。
(曲)

cure jazz reunion

cure jazz reunion

はい、「菊地成孔の粋な夜電波」。ジャズミュージシャンの、そして…
ま、何でしょうね…いろんな…ワタシ本なんか出したりするんで、編集者の方とかね、出版業界にも知り合いが多いんですけど、なんか最近コソコソっとワタシのそばに寄って来て、パーティーとかで。「あの…小説書きません?」…絶対書かないですよ。番組で断言するほどのことでもないんですけど(笑)。絶対書きませんけど。「小説書かないか?」みたいな話して。…それってあの…単に又吉さんが…(笑)。「又吉バブル」なんじゃないすか、出版社が…っていう。ワタシは「ナルヨシ」ですけれども(笑)。「『ナルヨシ』は苗字じゃないんで…。」っていう説明の仕方で逃げている…そして(笑)…
とは言いながらですよ、そこが畜生の浅ましさで、「じゃあ、小説もし書くとしたら、書き始めもしくはタイトルとか決めないとな〜。」とか思うわけですよね。で、まあ…そん時に自分が考えたタイトルとも書き始めとも真ん中とも言わない、ひとつのなんかフレーズなんですけど、それは…
「彼にとって死刑宣告を受けた事は、まるで死刑宣告を受けたに等しかっただろう。」
…っていうフレーズが頭に浮かんだまま、前後がまったく出てこないんで、ま…やっぱ能力的にも無理だ…と思っている菊地成孔が(笑)…TBSラジオをキーステーションに全国にお送りしております。失礼。
えーとですね、話は続くんですけど。
ま、これ読んじゃったほうが早いのかな、今日。出版されてるもの…「送る会」で配られた小冊子に原稿を寄せまして。これ錚々たるメンバーですよね、最初が山下洋輔、次が高垣健さん、次が黒川ホウジュさんっつって長く相倉先生とラジオ番組かな…をやってた方で、次が湯川れい子先生、で…大貫妙子さん、最後がワタシ…菊地成孔さん。そいで、それと別に相倉先生の生前の原稿が載っかったっていう小冊子が配られたんですね。で、そこに書いてあるんですが…。
さっき言ったようにね、「cure jazz」…2006年に「cure jazz」を出した時に、「相倉久人さんがアンタに会いたがってるよ。」って言われて。
「うん…」さっき言ったように、「いっぱいオレ今までいろんなもん出してる。」…要するにこれがデビュー盤じゃないんだけど、「『cure jazz』にフックされたわけね。」と思って。「さすが相倉久人。鈍ってねえな。」って思ったんですね、そん時。ま、生意気ですねえ(笑)。
そんでインタビューに来たんですけど、まあ…なんつったらいいんですかね、これ…どういうふうに話したらいいんだろう。
中坊の頃からレジェンドですから、ワタシにとって。で、まあ…さっきも言ったように大師匠にもあたるわけですよね。
向こうも…相倉先生も大変…頭のいい…っていう言い方しちゃいけないな…すごい勘が鋭い、ミュージシャンのことは何でも分かるような方なんで。
ま、これね…楽家のロマンチックだと思っていただきたいんですけど、直接顔を合わせてインタビューを受けるっていうのは、もう大袈裟に言えばですけど、命懸けの真剣勝負ですよね。
当時ってのは、ま…たったの約10年前ですけど、そういう時代だったんですね、まだね。SNSとかが定着してない…批評っていったら批評家と会うんだ、直接…っていう時代なんで。
で、ある会議室で会ったのね。ウィットネスはUAだけ。UAは相倉先生のことを「誰やねん。このおっちゃん。」って思ってますから(笑)。ワタシと相倉先生だけがギンギンになってるわけですよ。
こっちは…すいませんね、敬称略で。当時思った言葉遣いで…あれですけど。心の中で、「相倉がこのアルバムについて、どう感じ、どう考えて、どこがいいと思ってるのか、こっちはもう全部分かってるからな。」って思ってるわけです。
で、もう睨みつけてるわけ、相倉先生のことを(笑)。その後の交友のことを考えたら信じられないですけどね。これ、初対面の話ですよ。
で、先生は先生で、「こいつは、まあ…頭が切れるだろうな。」と。「ジャズ馬鹿じゃねえ。」っていう。その…「頭が切れる」なんて別に良い事でも何でもないんですね。ほんとは音楽バカが一番いいんですよ。ま…「こいつは頭が切れるだろうな。この音楽のどこがヤバくて、その代わりどこが弱いのかは、全部分かってるだろう。だから、ちょっとこっちが批評家として引っ掻いただけで、おそらく倍返ししてくるだろうし…」…しますしね、ワタシ。「…倍返ししてくるだろうし、逆に安直な褒め殺しも絶対通じない。」と。
これはもう、お互いガード…格闘技でいったら全く手が出せない状態です、お互い。
で、もう相倉先生は…ほんとに…相倉先生って御自分の好きな仕事しかされないんで、今までも散々やってるわけ。ミュージシャン相手に、話ができなくなっちゃうっていう。絶対会いたいんだっつって来るんだけど、話すことができない。膠着状態になる…今みたいなこと、ま…あるいは違うようなかたちも含めてですけどね。
で、ワタシと相倉先生はそういうふうな感じになったんですよ。1時間半、時間もらって、変な会議室みたいな…変なっつっちゃいけないな(笑)…どっかの編集部の会議室でインタビューの時間があったんだけど。もうこっちはそれもんでギンギンに睨んでるし、相倉先生はぐるぐるぐるぐる回ってるわけ。ほんとに格闘技みたいですよ。熊みたいにぐるぐるぐるぐるワタシの周り回って、腕組みして。そいで、全然違う話をしてるわけ。
それは相倉戦法って呼ばれてる、実際にミュージシャンとコアな話をしてしまって、ヤバい事になんないために、相倉先生がのらりくらりと抜ける…あれもひとつの…何て言うかな…ニューロティックな動きだと思うんですよね。わざわざ会いに来て喋れなくなるわけだから。
なんですけど、まあ…そうなったんですよ。
で、全然違う話始めたんで、「これはもう相倉戦法によって、タイムアップに持ち込もうとしてるな。」ってワタシ思いました。
で…ちょっとあったんですよ。一瞬だけね。接触があったの。これほんとに格闘技の話してるのと同じだな。第一接触が一瞬だけあったんですよ。火花バチッと散ってね。
そいで…お互いひと言ずつ言ったんですけど。これは今ここでは敢えて言いませんね。
今、ワタシ…「レクイエムの名手」っていうタイトルで、この番組での語り下ろしもだいぶ入ってるんですけど、この10年間でサイトやこの番組でやった追悼ですよね。それをまとめて本にしないかっていう企画を…5年ぐらい前にもらってて。
もうそん時は笑っちゃって、両手ブンブン振って「もう勘弁して下さい。坊主じゃねえんだ、こっちは。」っていう。葬儀屋じゃねえんだからっつって、両手ブンブン振ったんですけど。ま…いろんな心理的な変化があって書く事にしたんですよね。
それで…ま、今日の残り時間で全部話せないな。本を読んでいただくのが一番いいんですけど。ただあんまりね、番組で「オレの本を買え。」みたいなのも野暮ったいですから言いたくないんだけど。
とにかくね…端折りますね。三章からなる本なんですよ。で、書き始めた。二章…を書き始めたら、相倉先生が危篤だっていう報が入ったの。
そいで、もし相倉先生が危篤だってことになんなかったら、どこでその本は…要するにずーっと追悼文が並んでるわけですけど、最後が誰になるかって話なんだけど、DEV LARGEさんだったの。番組でやりましたよね。BUDDA BRANDのDEV LARGEさんで終わる予定で、進んでたの。
で、脱稿したんですよ。「だっこう」ってお尻の病気じゃないですよ(笑)。すいません、こんな…なんか…話が今シリアスになっちゃったかなって思って、何か言わなきゃって…言ったんですけど。お尻の病気じゃなくて(笑)、脱稿したんですよ。脱稿したって事は、DEV LARGEさんでこの本は終わる。
そしたら相倉先生がその直前に危篤の状態になったの。でもまだ亡くなってなかった。…で、ううん…って相当グッってなったんですけど。
その前にプーさんが亡くなった。菊地雅章さんが亡くなって。ブーさんはこの番組でも説明しましたよね。dCprGってワタシがやってるバンドの「Circle / Line」って曲の作曲者です。
プーさんとワタシの関係も相当なものなんだけど。プーさんが今年の七夕に亡くなった。
「おわ〜、プーさん…滑り込んだな〜。」プーさんはワタシのことを「ナルヨシ氏」って言ってるんですけど(笑)。これもこの本で初めて公開した事なんですけど。「ナルヨシ氏」ってワタシのことを呼んでるのね。
ほいで…まあ、プーさんからの声が聞こえるようでしたよ。「ナルヨシ氏、俺もヒップホップ好きだし、ナルヨシ氏がラッパーになったってのは分かるんだけど、最後ラッパーで終わるってのはちょっと違うんじゃないの?」っていうプーさんの声が聞こえたような気がして。
で、「うおぅ…最後滑り込みでプーさん入って来たわ〜。」って、「プーさんの事、書かなきゃ。」っつって、最後プーさんになったっつって、脱稿してるのに…お尻の病気じゃないですよ(笑)…脱稿してるのにプーさんの事書き始めたの。これ時間かかりました。10時間とかじゃ済まないんで…書き直し書き直し書き直し…11〜12時間書いて。最後プーさんなんのかな…って思ったら、「相倉先生亡くなったよ。」っていう。相倉先生亡くなったの7月8日ですから。プーさんと相倉先生は一日おきに、今年の七夕、その翌日に亡くなってます。
だからこの本のあとがきは…本文はDEV LARGEさんで終わって、あとがきとして「菊地雅章相倉久人、一日おきに死す」ってかたちで、2015年7月7日・8日っていうふうになって。で、相倉先生…本の一番最後の最後は相倉先生とのことを書いて終わってるわけなんですけど。
細かい内容は、本読んでいただけると…ま、立ち読みでいいんで。読んでいただけるとありがたいんですけど。
最初会った時は、とにかく膠着状態。お互いね…相倉先生も汗ダラダラだったし、ワタシも手に汗握っちゃって。UAだけが「こいつら何やってんだ?」みたいな(笑)。「全然『cure jazz』の話、せえへんねんけど。」みたいな感じでボヤッとしててね(笑)。それもずいぶん救いになったんですけど。二人きりだったらどうだったのかな?って思いますけど…UAがいてね。
そいで、相倉先生と「はい、時間です。」…タイムアップ。「やられた、結局相倉殺法に…。」と思って。「cure jazz」の話はひと言も出ませんでした。「cure jazz」のインタビューに来てんのによ。
その時にワタシは…ワタシと相倉先生は、こんなお互いね…ワタシは42ですけど、相倉先生そん時60…いやいや70代だったかな…ま、ま、それぐらいですよ…だから、「もうお互いキツイんで、こんなの。どんな人間かお互いよく分かったと思うんで…」…これ、喋ったんじゃないですよ。テレパシーですけど。
「もうこれからは…ワタシ、親父が40越えてからの恥かきっ子で、『ミッシングおじいちゃん』…つまり生まれた時にお爺ちゃんとお婆ちゃんも一人もいなかった、グランパとグランマがミッシングしてる、スーパー孫キャラだし、で…相倉先生はお子さんいらっしゃいませんので、お互いロールプレイで、いいおじいちゃん…すごい仕事をしてきた、いいおじいちゃんと、そのおじいちゃんの仕事全部…全部とは言いませんけど、ほとんどちゃんと見聞きして知ってる孫ってことで、仲良くやりましょう。」ってことで…暗黙のね、了解があったと思うんです。
で、そっから先はもう全然…
亡くなっちゃってね、「死人に口無し、キクチナルヨシ」ってのはワタシがラップやる時のパンチラインになってるんで(笑)…そんなもん、亡くなった後だったら何でも言えるじゃねえかって言われたらそれっきりなんですけど。
そういう…それが、ワタシ…相倉先生がエッヂに批評家として、日本人の音楽家が作る音楽を批評されるっていうのの…もう最後のシーズンで、ヘタしたら最後の試合だったんじゃないかなって、ワタシ思ってるんですよ。
そっから先、相倉先生は10年代に入って、もうそういう事は静かに手放されてですね。もう…族長、御隠居、元老、好々爺、目立ちたがりの気の良いお爺ちゃん…といった、そのロールプレイっていうか、振る舞いに、安心してシフトされたと思うんですよね。
それ、ワタシがいたからだと思ってるんですよ。それはワタシが偉いとかじゃないですよ。そうじゃなくて、相倉先生…やっぱ弟子取らないから、山下洋輔さんは弟子ですけど演奏家だから。「オマエも演奏家だろ!」って言われたら演奏家なんだけど(笑)。ワタシは批評家でもあるんで。物も書きますから。
だから…後継ぐとは言いませんよ。ただ、まあ…仕事全部見てて、好々爺、お爺ちゃんに安心してなるっていう、ひとつの引導を渡すっていう事は、若いもんのやる仕事ですから。いい形で引導を渡すって事がきれいにできる事は、一生のうち何回できるかわかんない仕事ですよね。
そっから先の相倉先生ってのはね、もうほんとに楽しい…相倉司会術とかをね、開陳して。もうボヤッとしちゃって(笑)。