【BOOK】九十九十九/舞城王太郎

九十九十九 (講談社ノベルス)

九十九十九 (講談社ノベルス)

三島賞受賞作「阿修羅ガール」の冒頭を立ち読みした時、久々に文体でビビッとくる作家に出会えたと大きく期待。
そして「暗闇の中で子供」、「煙か土か食い物」、「九十九十九」と立て続けに読んでみた。が、その読み進めている途中から激しく混乱させられた。「この作家はは天才なのかキチガイなのか、わけわからん・・・」。
ジャンクな言葉の中に、時々ハッとするようなフレーズがある。しかし、人を食ったようにあえて陳腐なギミックを散りばめ、はぐらかしと意味深の繰り返しはエスカレートし、物語としては破綻しているとしか思えない。
ミステリー作品に普段から親しみ、構成が複雑であれば複雑であるほどよいとする人にとっては、中で起こる事件や都合の良すぎるトリック、それを説明するためのレトリックは、あくまでも物語を進めるための一要素、ひいては単なる記号であって、それぞれの吟味は重要でないのかもしれない。そこを逆手にとっての挑発なのか、中身なんて何も無いんだよと言わんばかりに、作中では殺人のための殺人が次々起こり、トリックのためのトリックがあり、レトリックのためのレトリックが乱暴に展開される。事実として語られていたかと思えば、それが登場人物が読んでいた推理小説の中身だったり、夢だったりと、フィクションの入れ子構造を多用するのもやり過ぎの感があり、読者の理解を拒むかのようだ。
そんな印象が強かったので、「結局のところ、よくわからん!」と自分の中で結論付けることも放棄してしばらく経っていた。
しかし今日たまたま「ファウスト」の第2号を読んでいたら、東浩紀という人が自説のポストモダン論を用いて舞城作品の解説を試みている評論が目に留まった。難解ではあったが、「コミュニケーション志向メディアのネタとしてのデータベース消費」という視点など、なるほどと思う箇所もあり、舞城作品を読み解くとっかかりのようなものがなんとなく掴めた気がする。
これでもう一度読んでみればある程度の理解を踏まえつつ読み進められる・・・と思ったが、やっぱ気のせいか?