アジアン・カンフー・ジェネレーション

今年の夏フェスどうしようかな〜と、いろいろ検討していて、久々にサマーソニックに行くつもりだったのだが、やはり15000円というチケット代に抵抗を感じて、三たびNano-mugen Fes.に行くことにした。運良く先行抽選で取れたし。
3/11の東北震災後のゴッチの行動にはとても共感し敬服しているので、当日は何らかのメッセージを発信してくれると思うし、そこで人々が集い、思いを共有することの意味を再確認できるいいイベントになると思っている。
あらためてアジカンというバンドについて考えたので書いてみる。
私(ぢゃぽん)は、自分なりの「ロック感」というものを価値基準として築きつつ、それに照らし合わせることですべての物事を判断して生きてきた。その中のひとつに、やはり「ロック=バンド」だよな〜という結論がある。
バンドという制約の中でいろんな葛藤を抱え、それを表現するからこそのドラマツルギーカタルシスの要素があるわけで、「自分のやりたい音楽をストレートにやりたい」というエゴのために、メンバーとの共同作業の煩わしさを放棄したソロ・アーティストの発するメッセージにはほとんど共感できないのだ。
だからアジカンは、スピッツは、バンプは、エレカシは、ウィーザーは、レディオヘッドは、絶対に解散してはいけない。たとえどんなに優れたひとりのソングライターに寄りかかってその音楽が成立していたとしても。(バンドを維持しつつ、そこで収まらない表現を世に出す手段としてのソロ活動はアリ。トータスのソロはいずれバンドに戻るための猶予だと思って静観している)
ただその中でもアジカンの特異なところは、メインのソングライターでありバンドの方向性を決める主導権を握り、メディアに載る機会を生かすべく発するメッセージを決める後藤正文(ゴッチ)という人が、「極めて凡人」だというところだ。
音楽的素養が最初からあったわけでもなく、ロックスター幻想に取り憑かれていたわけでもなく、田舎の平均的な家庭に育ち、野球が好きだっただけの少年が、好んで聴いていたロックミュージックによって挫折から立ち直るきっかけを掴み、人を救うことができる音楽の可能性を信じ、そんなことができるなら自分もやってみたいと強く決意して、努力によってミュージシャンになれてしまった人なのだ。
そして彼は「こんな普通の自分が大勢の人に影響を与えることのできる立場になってしまった」ということを自覚し、それに誠実に向き合いながら、工夫を重ね、今も音楽を作りつづけている。
ゴッチ本人は、内から自然にメロディが湧いて出てくるような天才だったらもっと深い表現ができるだろうと悩んでいると思う。だけど、「でもやるんだよ!」精神で捻り出した音楽こそに、自分が思う「ロック感」が集約されている。
「大声で叫べばロックンロールなんだろう?そんなクソみたいな話ならもう沢山だよ」とゴッチが歌詞の中で言っているように、世の中のいわゆるロックンロールというジャンルに対するイメージには辟易していて、「僕たちロックやってます!」という演者に対して「そうだよね、ロックだよね!」と同意する信者を集めて予定調和的なコンサートを開いて満足していたら、もうそれはロックではない。
現状に満ち足りた日々をおくっていられるなら、自ら表現する必要もなければ、表現された芸術作品にふれて感情を揺さぶる必要もないわけで、その現状へのフラストレーションを最も先鋭的な形で表現しようと試みているひとつがロックミュージックなわけだ。
その現状への不満の表現は時代とともに変化していて、それこそひと昔前なら革ジャン&リーゼントで「俺は不良だ」と宣言しアウトロー感を前面に出すことがわかりやすくて有効だったのだとは思うが、いまだに反抗的なポーズのみを押し出して「俺はみんなとちょっと違うんだぜ」という自己顕示欲を示したいがための手段としてロックを利用する輩が大勢いるのにはうんざりする。
化粧して、髪の毛立てて、奇抜なコスチュームを着て、なんとなく背徳的なイメージの言葉を並べ、演奏力が無いことの言い訳としてただ乱暴に大きな音を立てて、自己陶酔に浸っている連中の姿を見て、今このご時世になにか得るものがあるのだろうか。
娯楽としての楽しい音楽はもちろんあっていいと思う。しかし、主体的に能動的に音楽を聴いていきたいと思っている人にとっては、少なくとも世界の中で比較したら十分恵まれている日本という国において、表現活動を職業として成立させるのに、「ただお遊びです」というのだけでは、それは誠実とはいえない。(電気グルーヴのおふざけの中にだって誠実さはあるんだけれども)
ましてや、今まで当たり前のように享受してきた豊かさが根本から揺らぐような今回の震災以後に、ロックを通して考えを深めることにも必要性を感じているので、「誠実さ」のない表現に魅力は見いだせない。
ゴッチが我々普通の人と同じ目線を維持し、日々葛藤を抱えながら音楽を作り続けている限り、自分はアジカンの音楽を聴き続ける。

ASIAN KUNG-FU GENERATION presents NANO-MUGEN COMPILATION 2011

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