「ノスタルジーに処方する音楽。」

「粋な夜電波」115回放送の「Few Minutes Unlimited」のコーナーで朗読された、「ノスタルジーに処方する音楽」についてのショートストーリーが、これまた最高にカッコよかったので書き起こしてみました。
いずれ短編小説集が出版され、作家として兄の菊地秀行先生と書棚に並ぶことも、あながちありえない話ではないのではないかと思えるほどです。
よろしければ、Katzen Kapellの「Taxin」をYoutubeで再生しながら、お読みください。

なんでそこまで悲しくなったのかは、わからなかった。
おそらくそれは病気で、これは症状のようなものなんだろう、と思うしかなかった。
それは考えられうるだけ遠くまで行ってみよう、という空想の遊びの最中に、突然訪れたのだった。


ノスタルジーというものは、もともと鬱病の一症状だ。
故郷を遠く離れた十字軍の兵士たちは、こぞってこの病いにかかった。
十字軍の遠征は八回とされるが、発症は第一回からすでに報告されている。
第一回の遠征は三年間に渡り、兵士たちは一人、また一人と過去を懐かしがり始め、やがて懐かしがることがやめられなくなり、とうとうあらゆる意欲を失うのだった。
教皇エウゲニウス3世の命を受けた、フランス王・ルイ7世と神聖ローマ皇帝・コンラート3世は、二回目の遠征を一年間に設定し直さざるをえなくなった。


Google Earthなんか捨てちまえ。
それが中学生である僕らのスローガンだった。
スマートフォンをコンビニのゴミ箱に投げ込んだ僕らは、完全に理想的な廃屋を探し、驚くべきほど近所にあったそこに忍び込んで、二人で横になった。
目を閉じてハイライトを吸った。
同い年で、同じ星座で、ルックスもほとんど同じ、僕と彼女が、生まれて初めて吸った煙草は、同じ銘柄だった。


「ずいぶんと箱のデザイン、変わっちゃったんだね。」と言った瞬間から、彼女はもう感染していたと思う。
出会ってから三日間、僕らはお互いの過去のことを熱狂的に話し、話してはセックスし、セックスしながらもなお話し、また話をして、話しながら欲情してセックスし、三日間ですべて話し尽くしていた。
「もう過去の話は何もない。僕らの未来に向かおう。」と決めた時、僕らは唖然とした。
何をしていいのか、まったくわからない。
金も仕事もなく、悪い思い出しかない僕たちは途方に暮れ、空想の中で、未来ではなく、考えられうるだけ限りなく遠くへ向かうことに決めた。
お互い一度も旅行に行った事がないから。


彼女の父親は嘘つきで、「いつか旅行に連れて行ってやる」と彼女に約束しては姿を消し、何日も経ってから戻ってくると、気まずい空間に魔法をかけたのだった。
ろくでなしの父親が、行けなかった空想の旅行の話をすると、最初は憤っていた彼女も、その巧みな話術に乗せられ、最後は旅行に行った気分になっていたのだった。
それは、うっとりするような気持ちで、その気持ちだけが彼女の人生を支えていた。


「君が一番遠いと思っているところは何処?」と言うと、彼女は「エジプト」と言った。
「あなたは?」と言われ、僕は「ブエノスアイレス」と答えた。
「ああ…じゃあ近いじゃない。」彼女は気弱に笑って、「行きましょ。」と言った。
僕らの空想は、隣国であるスペインとアルゼンチンに向かった。
十字軍の兵士のように意気揚々と。



しかし、ワクワクするような遠征の最中に、彼女が突然胸を抑えて涙を流し始めたのだった。
「どうしたの?」
「わからない。いきなり…いきなりすごく悲しくなったの。助けて。」
僕は急いで彼女の胸元をはだけ、乳房にキスをして、鎖骨にキスをして、首筋にキスをして、全身を彼女に絡み付かせた。
それでも彼女の発作はいっこうに止まらず、セックスの時とはまったく別の意味合いだとしか思えない、激しい喘ぎ声を出して、苦しみ始めた。
「悲しい…悲しい、悲し過ぎるわ。悲し過ぎて、息ができないわ。…どうしてかしら。助けて、助けて。」
僕は怖かった。彼女が死んでしまう。
やっと出会うことができた、過去の話ができる、たった一人の友達を、僕は失ってしまう。


彼女は喘ぎ続け、身体を大きくブリッジさせ、ピナ・バウシュの舞踏のように、ロバート・ロンゴの絵のように、異様なまでに身体をくねらせていた。
そしてそのうち、僕にもそれは感染した。
とてつもない悲しみが、詩や絵画のような、巨大な暗黒の空のような悲しみが、僕を支配し始めた。
元の場所まで戻ろうにも、もう僕らには無理だ。
このままでは、僕も彼女も死んでしまう。


悲しみには姿がなかった。
何の悲しみか、何の思い出と関係があるのか、まったくわからなかった。
過去はすべて、すべて彼女と話し尽くしたというのに。
とてつもない悲しみに気を失いそうになった瞬間、僕は気が付いた。
すでにあの三日間が過去だ。
目から火花が散り、僕は空を飛んだような気分になった。
過去はない。未来もない。生物には現在しかない。



かろうじて息を吹き返した僕は、彼女を抱きかかえ上げて立ち上がり、廃屋の外に出た。
そこは有名な国道で、たくさんの車が走っていた。
彼女は壊れたロボットのように暴れまくった。
その時だ。突如として、音楽が鳴り響いた。
それはとてつもなく悲しい音楽だった。


気が付けば僕らは国道を渡り、向かいの大型洋品店の中に居て、その店の店内BGMを聞いたのだった。
僕も彼女も、音楽は特別に好きなわけではなかった。
買い物客である、たくさんのオバサンたちは、僕らを見もしていない。
しかし、その瞬間、僕らは知った。
音楽が僕らに効くことを。



重かった彼女の身体はみるみるうちに軽くなった。
彼女は3秒だけ寝て、目覚めた。
「やだ…すごく怖い夢を見てたの。」
「そう…そうだね。そうだよ。」僕は言った。
「聞いてごらん、この音楽を。」
「そうね。聞こえるわ。聞こえるわ。…まるで、生まれて初めて音楽を聞いたみたい。」


彼女を降ろし、大きく息をして、僕らは手を繋いで洋品店の店内を歩き回った。
偉大なるBGMは流れ続け、大勢の買い物客たちは、誰もそれを聞いていないかのようだった。



たった1曲でも音楽の感動はアンリミテッド。
今のあなたの感動は、過去の、未来の、そしてたった今の、他の誰かの感動。
「Few Minutes Unlimited」今回の1曲は、2007年リリース、スウェーデンのチェンバー・ロックバンド、カッツェン・カペルのサードアルバム「SI TU VEUX」より「Taxin」。
この楽曲はMusic Unlimitedでお楽しみいただけます。

Si Tu Veux

Si Tu Veux

※文字起こしの「NAVERまとめ」あります。