「最もエロティックな25時に向けて。」

「粋な夜電波」178回は、「音楽シェフ菊地が提案!『この料理にはこの音楽がマッチする!』」と題したスペシャルウィーク企画。
番組ラスト10分での、菊地先生の朗読が、あまりに官能的で、目眩しそうなほど素晴らしかったので、文字起こししてみました。
セクシュアルな内容を率直な言葉を用いつつも品を落とさない、その表現力にあらためて感服しました。
ほんっとーに…菊地先生の知性とユーモアの100分の1でも身に付けた、大人な男になりたいものだ、という憧れをさらに強く持ちました。
(※以下の文章は、あくまでもオンエアにのった語りを聞き取って文字に起こしたものです。朗読に際して菊地成孔氏が用意された原稿が存在すると思われます。同内容が書籍や他の媒体で発表され、著作権が発生されると思われる場合には、速やかに削除いたします。)

Blue Film

Blue Film

Glee: the Music Presents Glease

Glee: the Music Presents Glease

女性器の味について。


世の中には、非常に甘美だが、非常に危険な領域がある。
甘美で、危険であること。これは不倫や倒錯的なセックスは官能的だ、といった品性下劣な話ではない。
それは幾つかあるが、花や酒、自然現象などではなく、他ならぬ食べ物の話をしている時に、女性の肉体を喩えに出す事は、その一つだ。
谷崎潤一郎は、「湯上がりの女の裸は、茹でた鶴の肉の匂いがする」と言った。
ジョルジュ・バタイユは、女性の肛門の香りに幾つかの花の名前と共に、ベネズエラ産のビターなショコラの香りを並列している。
天才だらけの世界文壇史の中でも、成功しているのは、僕が知る限り、この二人のこの二つだけだ。
如何に甘美で危険な領域か分かるだろう。


一冊目の本に書いたが、僕は小学生の頃、飲食店だった家業の手伝いで出前によく行き、出前先のスナックやサパークラブの女性に、よく抱き締められて泣かれた。
彼女達には概ね理由があって、小さな男の子を抱き締めると反射的に泣き出したり、泣き出しそうになると反射的に小さな男の子を抱き締めたがったりした。
離婚して子供と生き別れになったとか、人工妊娠中絶を含む様々な理由で死別したとか、ある意味…とするが、綺麗な話ばかりではない。
小さな男の子を抱き締めながら、泣かずに喘いで涎を垂らしていた女性もいた。
幼児愛の中年女性というのは、虚構の中にだけ居るのではない。
昭和四十年代の地方都市の港町にも居たし、おそらく、紀元前にも居た。
リアルとか非リアルとか言いながら、漫画やアニメの中だけで変態性欲を扱う人々は、大変に安全で、大変に幸福である。
なのに彼等は概ね、自分を不幸であると思い込んでいる。
…幸福なのに。化物に犯されないだけでも。


ラジオで話せる範囲の話に戻ろう。
化粧も香水も濃い、昭和四十年代の女性に抱き締められ、泣かれた時の僕は、天才的な味覚と嗅覚を持っていた。
人工的な匂いを搔い潜り、人体が発する香りにストレートに到達出来たのである。
涙は温くなった潮汁の味がする事。そして泣いている時の女性の身体からは、茹でた豚肉の匂いがする事。
子供は教養の吸収が早い。
ある年の夏から秋にかけて、僕は少なくともこうして、自分が五十歳を過ぎても有効であり続ける、生きる上での基礎教養をまとめて身に付けた。
もちろん、バタイユや谷崎には及びも付くはずはないが、僕はだから…食い放題の豚しゃぶを笑いながらバクバク喰らう若い女性を見るのが、今でも少し怖いし、料亭や寿司屋で潮汁を黙って飲んでは黙って吐息をついている女性を見ると、興奮する。
コンソメや丸鶏から取ったシャンタンでは興奮しない。
「AMラジオ的には」とするが、片方の眉間にのみ皺を寄せながら、危険な領域ギリギリに移動しよう。


十五歳の時に僕は初めて十五歳の女性の女性器に接吻した。
相手は僕の最初の恋人で、僕と彼女は確かに愛し合っていたが、そうした愛に一番似ているものがあるとすれば、楽器を初めて手にした二人による、その楽器の合奏であろう。
狂気に近い独断だが、僕は楽器が演奏出来ず、ダンスも踊れない人間は、基本的に恋することが出来ないと思っている。
というか、これはトートロジーだ。
上手じゃなくてもいい。恋は自然と人を演奏させるし、踊らせる。そして、キスをさせる。全身の至る所にまで。
前の夜、彼女は生まれて初めて男性器を口にしていた。
慎ましやかな接吻が終わり、つまり、その楽器が鳴らせると分かった喜びから、決して貪婪ではない彼女は、すべてを飲み込もうとし始めた。
嗚咽と共に何度も吐きそうになりながらも、再び口にし、また吐き出し、また口にし、やがては涙をこぼしながら口にし始めた。
僕は最初からずっとひたすら戦慄し続け、最後は力いっぱい抱き締めることしか出来なかったが、そうやって僕等の演奏は終わり、僕等は天使達の拍手を聞きながら、舞い上がるような恋の気分と共に服を着て、家に帰った。


その日はその翌日で、今度は僕が彼女の女性器を口にする番になった。
彼女は風呂に入っている間、十九世紀のケニアの少年もかくやといいう程の、イニシエーションにも似た恐怖と恥辱の時間を乗り越え、高い次元に上り、バスタオルに包まれて風呂から出て来た時には、アドレナリンが大量に出ていた。
全身から百合の花の香りをさせ、角膜は虹色になっていた。
海外製の香水など地方都市には届かず、カラーコンタクトなどハリウッドの撮影所にさえほとんど存在しない時代だ。
後年、パニック障害を起こした時に見舞われた、死ぬかと思うほどの激しい動悸が、この時のそれと同じものだという真理に気付くのは三十五年後になる。
過換気を起こしながらも僕は、恐怖と興奮の絶頂にいた。
中学の吹奏楽部の部室で何年も眠っていた骨董品のようなフルートを組み立て、見よう見まねで吹く。
エロ本をゴミ箱で見付けたり、トイレの落書き…あるいは宗教画から女性器を夢想するような人生でなかった僕は、本当に正真正銘、空想すらした事ない女性器を、初めて見た。
果たしてそれは、目の前にあるのに、どんな形をしているのか、全く分からなかった。
正体さえ把握出来ない、目の前の一部分に対し、デートの時の少年性の荒々しいキスよりも遥かに慎重に舌を伸ばした。
そして、舌先が触れた瞬間、過換気は瞬時に僕から彼女へと感染し、彼女は壊れたロボットのように激しく足掻きながら、高速で息をし始めた。
僕はレスラーのように全身に力を入れ、暴れ回る彼女を両手で押さえ付けながら、舌先だけは先端医療の執刀医のような慎重さを絶やさなかった。
それがその時の僕のエクソシズムだったのだろう。
カーティス・メイフィールドの「Sweet Exorcist 」を聞くのは、七年後である。


肝心の、その味について。
「興奮していてよく分からなかった。」などというコメントだったら、それが放送コードに準じたフェイクだとしても、実直なリアルだとしても、僕は今頃、毎週マイクの前に座って音楽など流していないに違いない。
飲酒も喫煙もせず、香水も付けず、実際に楽器の演奏もままならなかった、十五歳の僕の舌は、科学的な検知器のレヴェルから見ても、高性能かつ鋭敏で、アルコールに酩酊さえしなければ、天才中学生としてシニアソムリエの資格が取れただろう。
二十種類以上のアミノ酸の結合状態も、二百篇の詩も諳んじられた僕の舌は、百年以上の歴史を持つであろう、あらゆる低俗で間違った女性器への偏見や類推を全て潜り抜けて、真実に到達した。
その香りは、油絵の具、蜜蜂の胴体、河と海が交わる最も澄んだ状態の河の水、障子紙を貼る糊…の合成物で、そしてその味は甘く、その成分配合は巻貝ではなく二枚貝の貝柱の部分、鉛筆の芯、若竹を剥いた中心部、そして不思議なことには、それ自体とても熱いのに、よく冷やした果物…柿の甘味がした。…なるほど。
僕は何分間かそれを味わって、完全に記憶した。
彼女の顔、彼女の全身、彼女の声、彼女の人格、彼女の名前…は、今でもその記憶とセットになって、よく憶えている。


今夜最後の曲は、第二には現在五十一歳の彼女、そして第一には…性別も年齢も国籍もセクシュアリティも問わず、まだ女性器を口にしたことがない人々、中でも特に、自分は一生口にしたくないと思っている人々、全員に捧げたい。
今夜の番組のテーマは二つである。
A:他のすべての感覚と違って、味覚は退化しない。一度大人になったら、二度と戻れない、ということ。
そしてBは、あらゆる国がフランスに憧れ、そしてフランスもあらゆる国に憧れる。いわば、フレンチポップスのインターナショナリズムについてである。


女性器に関する味覚以外の考察は、いつか別の機会に。


今年デビューした期待の新人、Lo-Fangの本名は、マシュー・ヘマーリン。コロンビア州生まれのアメリカ白人である彼のこの楽曲は、現在CHANELの香水「N°5」のプロモーションフィルムに使用されている。
原曲は50年代の学園ミュージカル「Grease」からのスタンダードで、テイストとしては、ソニック・ユースのサーストン・ムーアがカバーしたカーペンターズに近いが、女性器の味をゆっくり味わっていなそうな、グランジオルタナティブに比べると、遥かに女性器の味がするサウンドになっているのは、CHANEL起用の一因だろうか。
Lo-Fang「You're The One That I Want」。
最もエロティックな25時に向けて。
味わう方も、味わわれる方も。


※文字起こしの「NAVERまとめ」あります。