「dCprGは、プーさんからすべてが始まった。」

「粋な夜電波」第218回放送は、先週するはずだったdCprGのツアーを終えての感想など。
dCprGのライブで必ず演奏されている名曲「Circle/Line」の作曲者で、偉大なるジャズミュージシャンの菊地雅章さんを偲びながら、どれだけ大きな影響を受けたかということを語られました。
dCprG結成秘話ともいえるトークの一部を文字起こししてみました。

ススト

ススト

というわけで、本日は…ま、先週本来だったら、しようと思ってた話ということで、仕切り直しでですね、dCprGのツアーを振り返ってみようかなと思っております。
ま、あんまりあの…ワタクシ、番組の中で何度も申し上げてますけど、自分が音楽家だからっつって、自分のツアーの話やアルバムの話…ま、しますけどね、…をやって、あーだったこうだったという、ファンの方対応だけの番組をするってのを潔しとしないんですけど。
ま、ま…今回はdCprGのツアーそのものよりも、dCprGの音楽ってのはどんなふうにできたか、ついでにdCprGの運営と設立の恩人である菊地雅章(きくちまさぶみ)さんが亡くなったばかりですので、そういった件も御紹介しながらお届けしようと思います。
(中略)
まず、これ聞いていただきますね。追悼という意味もあります。菊地雅章さんという、ほんとに偉大なジャズミュージシャンがいらっしゃって、ワタシは同じ菊地性なので、場合によっては菊地の秀行よりも菊地の雅章さんの血縁者じゃないかと思ってる方もいっぱいいらっしゃるんですよね。
なにせ、菊地雅章さん…業界では「プーさん」ってあだ名だったんで、以下プーさんとさせていただきますけども。
プーさんの甥っ子は菊地雅晃くんっつって、一時期ワタシのバンドのベースだった子ですけども。
ま、ま、ま…そんな話はともかくとして、1曲聞いていただきましょう。
dCprGのライブにお越しいただいている方におかれましては、ま…いつも聞いてる曲ですね。「Circle/Line(サークル/ライン)」という曲です。ま…解説は後にしましょう。まずは聞いていただきます。菊地雅章さんの、1980年…傑作ですね、「SUSTO(ススト)」というアルバムから、「サークル/ライン」聞いてください。
(曲)

(中略)
ワタシがなにせdCprGっていうバンドをやろうと思った根拠ってのがあって。それはもうすごい昔に遡っちゃうんですけど。
このオリジナルの「サークル/ライン」が収録されているアルバムは「ススト」っていうんですね。厳密には「ススート」って、ちょっと伸びんだけど。スペイン語で…このタイトルもすごいセンスいいと思うんだけど、スペイン語で「人に恐怖を与えられたことによる錯乱状態」のことを「Susto」っていうんですよ。
強面の人はだいたいものすごい臆病なんですよね。で、こう…外柔内剛っつって、表面ニコニコしてたり、いい調子の人のほうが、中が恐かったり強かったりするんだけど。プーさんは外見が恐かったんで、内面はものすごいデリケートだなと思うんだけども。
このアルバム「SUSTO」が…これ1曲残らず名曲なんですけど、80年に出たんですよね。で…リスナーの方にどのくらい伝わるかな。「ジャズ界の『ナイトフライ』」って言われてるんですよね。

(中略)
ジャズ界で「SUSTO」を超える予算を投入してるアルバムは無いって言われてて。すごいですよね、プーさんね。日本人でそんな記録持ってるわけですから。
ほとんどが伝説なんで、ワタシ…実際に取材に行ったわけでもないですし、取材したところでジャズメンにマイク向けたって本当の事言うかどうかわかんないですからね。全部が藪の中ですけれども。
4トンのトレーラーに何台もシンセサイザーが入ってて、そいでもう…体育館みたいな広さの所に機材ブワーッと並べて、そいで…一流のNYのスタジオミュージシャン呼んで。で、呼んでおきながら、拘束すると金かかるじゃないですか。
で、呼んでおきながら、曲がまったく出来ないから(笑)、全員ほとんど…何て言うんですか、ジャズメンの大好きな違法なお薬とか植物とかをやりながらですね、日がな一日ずーっと何にも無くて、その間ずーっとプーさんが苛々苛々しながらシンセサイザーいじって、ほいで「今日もう帰っていいよ。」って言われて、途中何回か中華料理のデリバリーがあって…っていう日が何日も続いて。で、もう予算がどんどんどんどん嵩んでって。
で、その結果、やっぱ歴史に残る名盤が出来たんですけど、残念ながら「ナイトフライ」みたいに、鮮やかに回収するっていうハッピーエンドにならずに、バッドエンディングっていうか(笑)…大変な負債が残っちゃって。で、その後のプーさんの活動を大きく制限する結果にもなってしまうアルバムなんですけど。
金をドブに捨てるようにして出来た一滴として、傑作が生まれるんだけど、それが売れなかった。それだけでも、まあ…ひとつ、呪われた名作として、すごいアウラがあるわけですけども。
それよりも何よりも、ワタシがまあ…ビックリしたのは、その来日公演だったんですよね。
ま、そのお話をする前に、我々がカバーした盤ってのを聞いてみましょうか。
我々はこのカバーを2度レコーディングしておりまして。3年の活動休止期間を含めると、結成からはや17年なんですけど、その間にライブはだいぶやってます。ですが、この曲を演奏しなかったライブは1回も無い…という曲ですね。
「Circle/Line」dCprG版、特に新しいほうですね。「SECOND REPORT FROM IRON MOUNTAIN USA」…我々とインパルス・レーベルがサインして2枚出しましたが、そのうちの2枚目のほうに入っております。こちらを聞いてください。
(曲)
SECOND REPORT FROM IRON MOUNTAIN USA

SECOND REPORT FROM IRON MOUNTAIN USA

(中略)
…とまあ、そんなこんなで話が続きますが。
記憶だと中野サンプラザなんですけどね。
つまり、もうそん時NY在住でNYで作ったアルバムですけども。もうNYの一流ミュージシャンですよ。日本人は日野皓正さんとプーさんだけですからね。
また話スリップしますけど、何年前かな…3〜4年前に「東京JAZZ」にワタシがdCprGで出た時に、この曲演ったんですよ。そしたら同じ日の、我々の後が日野皓正さんで。で、日野さんが「わー、『ススト』じゃん、これ!」って(笑)…比較的小ちゃい子のように「あー、『ススト』演ってんじゃん!」って言われたという思い出がありますけどね。まあ、それはともかく…
大量の…「ナイトフライ」級の…ま、「ナイトフライ」に比べたら額は少ないんでしょうけど、実額がどれくらいだったのか知りませんけども。まあ、相当な金をかけてアルバムを作ったものの、回収できなかったプーさんは、とはいえ…日本人のミュージシャンですから、故国である日本でですね、レコード発売の記念コンサートをするわけですね。
で、その東京の会場が、ワタシの記憶だと中野サンプラザになってます。
ワタシはとにかくこのアルバムにやられて、とにかくライブを聞きに行こう、と。だからまず第一のショックをアルバムで受けてるんですよね。
「ものすごい金がかかったけど取り戻せなかった。」とか、そういう話は全部後から聞いた話なんで、最初は何の情報もないです。
80年は、菊地青年27歳…いやいやいや違うよ…17ですから。多感ですよね。で、「ヤバいなあ〜。」と思って、「聞きに行こう!」ってなことになって。東京の会場が中野サンプラザで、そいで…今でも憶えてますけど、東京行きのね、銚子からだと「しおさい」っていう特急があるんですけど(笑)、それの特急券買って、東京まで行って。東京駅から中野駅まで行って降りて、中野サンプラザで聞いたの。
ただ…このツアーも伝説のツアーで、呪われたツアーっていうか…「呪われた」っつっちゃあ縁起悪いですけどね、別に…言っちゃあトンチンカンとも言えんですけど。
つまり、アルバムに参加してるミュージシャンは超一流でね。…達が、それでも全曲演奏すんのは本当に難儀したっつーぐらいの難易度だったんですよ、この曲が。7拍子なんですよね。ま、7拍子がそんなに難しいわけじゃないんですけど。ただ、進行していくのに、例えば…ジャズだと何周すると次のアドリブが始まって…とか、音楽が進行していく約束事があるんですけど、それが全く無いんで、これ。紙芝居みたいに、いつ捲られるかわかんないんですよね、次のページが。で、ワタシはそれライブでキューを出して、みんなが見てて指揮者みたいに、「2小節前、1小節前、次!」っつーと次、ガンって行くっていうようなシステム使ってますけども。
とにかく日本公演をひと言で言うと、アルバムの曲が…東京公演だけかもしれません、他の場所では…東京公演だけだったのかな?…ま、そういった事もワタシ調べてないんですけど、少なくとも東京公演に関して言えば、ひと言で言うと「アルバムの曲が1曲も完奏されなかった」んです。
そんな事あんの?(笑)って、お思いかもしれませんけど、あるんですよね。やっぱ芸術家ってのは、そのぐらいやってなんぼだと思うんですけど。
まずは、レコーディングメンバーを一人も雇えませんでした。…ので、ライブに来たメンバーは、ある程度知ってる名前か、ひょっとしたらプーさんの今の単なる友達?(笑)…っていう人たちがやって来たんですよね。
で、ま…譜面バーッと渡して。で、リハは…プーさんのあの調子だったら、何小節か進むのに誰かまた苛めて苛めてってやってたら進まないじゃないですか(笑)。だから…そのままステージ上がっちゃうんですよね!…怖いもの知らずっていうかね。
で…ワタシ呆気にとられたんですけど。何小節か進むと止まるんですよ、演奏が。混乱して…そうすっと「ヤメ、ヤメ、ヤメ!」っつって。
プーさんがどうするかっつーと、怒鳴るわけですよね(笑)…ミュージシャンに向かって。で、「うわーっ、この人…怒鳴ってる!」って思って。
ま、今みたいな民が苛々している奥田民生さんじゃないですよ(笑)…民が苛々している時代だったら、もう「金返せ!」コールで、もう大変…暴動だったと思うんですけど。まあ、まあ…82年なんちゃあ、もう…おっとりした時代でね。みんな慄然として…半ば笑いながら観てる人もいたりして。
1曲も通んないの、とにかく。トライするんだけど難しいからわかんなくなっちゃて。だからアマチュアバンドと一緒ですよ。
で、「うわー…最後の1曲ぐらい、セッションでもいいから通せばいいのに…。」と思うんですけど、全部トライして…ま、だから記憶に残ってるのは、曲がだんだんダメになって止まる、そしてその後怒り狂ってる(笑)。そして演奏が始まる、でも演奏が間違ってるから、演奏中も怒鳴り散らしてるプーさんの姿が…残ったんですよね。これ、もう…ちょっとしたモダンアートのパフォーミングだなと思って。
で、そん時に…なんか突然、天啓というかね…そういうひらめきがミュージシャンには大切なんですけど。「このアルバムは、アルバムは出来たけど、演奏されないまま終わるんだな…。」と思ったんですよ。
「このアルバムを成仏させよう。」…亡くなったばっかりですから「成仏させよう。」って言うのもどうかと思いますけど、「このアルバムを成仏させよう。このアルバムの曲を、少なくとも『サークル/ライン』は全部通すんだ。」と。「完奏するんだ。」と。
まあ、そん時ワタシまだ17ですから、ミュージシャンになるかどうかも決めて…ま、ミュージシャンになる気もなかったですね。そん時は、まあ…恥ずかしながらコピーライターになりたくて(笑)…「大学の文学部入ってコピーライターになろう。」と思ってた時期で。転がって転がってね…転んで転んでミュージシャンになるだなんて夢にも思ってなかった…のにもかかわらず「やがて自分がもしバンドをやるんだったら、この『SUSTO』の『サークル/ライン』を演るんだ!」っつって。
で、しかも…座って聞くもんでした、ジャズは当時ね。だけど「この曲は相当踊れんぞ。」と思って。ワタシ、当時からディスコ好きだったんで。「7拍子でも踊れる、踊れる!」と思って。
これを…まだ「クラブ」…クラブカルチャーなんて出てくる遥か前ですからね、まだまだ全然ディスコですよ。「この曲を演奏して、たくさんのクラウドが踊るんだ!」っていうイメージが、なんかものすごい湧いたんですよね。
17歳…18か、翌年だから。ま、いずれにせよ未成年ですよ。そん時の夢がずーっと自分の中に蓄積されてて、人生その後もいろいろありまして、それで1999年にこのバンド…dCprGが結成しまして、最初にやった事が、とにかく楽譜なんか売ってないから、レコードから…当時もうCDでしたけど…今みたいにCDがコンピュータに取り込めてね、減速して聞けるとかいう時代じゃないんで、とにかくCDを聞いて、全部楽譜に起こすっていう。それだけでね、何ヶ月もかかったんですよ。
で、近似値も…ミスもないように、きっちり全部起こして。チャンネルLだけにしたりRだけにしたりしてね、ステレオですから。で、あらゆるもんみんな採って、そいで自分の知り合いからメンバー集めて。それが99年ってことは、いくつだ?…36ってことですね。
18の時にイメージした事を36で実現化したってかたちになりますよね。
で、まあ…それがdCprGの最初のモチベーションの50%なんですね。
最初はですね、今でこそもう…我々は前のメンツでも今のメンツでも、ほとんど居眠りしててもこの曲できるぐらい、やり込んじゃったんですけど。オリジナルの人がやれなかった分の敵を取るばかりの勢いで、15年以上演奏し続けているわけなんで。我ながらおかしな話だなと思うんですけど。
なんか感じたんですよね。無念とか、そういう感じよりも、使命感みたいなものがバーッと入って来て。同じ「菊地」だからだろうか?とか、いろいろ思ったんですけど(笑)。
他にもいっぱいアルバム出してる…晩年のアコースティックのアルバムとか、ほんと素晴らしいんですけど。フル・エレクトリックでこんなに来んセプチュアルですごいアルバムは、やっぱり後にも先にもこれだけなんですよね。
で、最初は…ま、dCprGって、自分で言うのもなんですけども、日本の中でもどのジャンルでもトップクラスの腕利きのメンバーが集まってるんですけど、一回目…まずこの曲を通すんだっつってリハーサルやった時は、みんな「無理だ!」っつって。だから、プーさんと同じ事になったのね(笑)。途中で止まっちゃったりして。「いや、無理だよ、これは。」っつって。
でも「なんとかやろう!」っつって、で…「こーやってこーやって…こういうふうにやるんだ。シーンが変わる時は、オレが2小節前から合図出すから、みんな演奏しながらこっちずっと見てて。」っつって。「手元の譜面は覚えて、譜面見ないように。こっち全員見るようにしてくれ。」とか、なんとかかんとか…打ち合わせして。
そいで初演にかけたのが、2000年かなんかですね。そん時は通ったんですよ。で、「完奏した!」っていうことで、終わった後、全員で抱き合った憶えがありますからね(笑)。
11人だけにサッカーみたいな感じでしたけど。だから、大儀見とか坪口とかね、津上研太とかと一緒に、グワーッと抱き合って「よく通ったよね〜!」っつって。…って憶えがあります。
そのままずーっと演ってきて…ほんと時が経つのは早いもんで…プーさんが元気がなくなって入院したってなったのが数年前で、それでも我々はこの演奏を続けて。そいで、メンバーも変わってニューアルバムも出たから、久しぶりでツアーでもやろうかな…っていう準備してる最中に、プーさんの訃報が入ったっていう流れですよね。
はい。ま、そういったかたちで、ずいぶん長い時間をかけた、そのモチベーションが…ひとつ終わった、とも言えますけど。ま、これからも演奏し続けますけどね。